蜂蜜色の夏

4.
 帰るの、と訊かれて頷くと、水都は膨れた。逃がさないと言うように、服を着始めたあたしの腰に腕を絡めてくる。
「泊まっていけばいいのに。」
「…そうしたいけど、水都忙しいんだから、広いベッドで寝なきゃダメだよ、疲れ取れないよ。」
 白々しい言い方に内心辟易したけれど、どうしても帰りたくて、子供に言い聞かせるみたいな声が出た。用があるわけではないけれど、あたしはこの頃、2回に1回はこんな風に水都の誘いを断っている。水都はあたしの腰に腕を絡めたまま、深々と溜息をつく。服越しに溜息が当たって、どきりとした。
「なんか俺ばっか我侭だよな。」
「…そんなこと、」
「俺、そんな頼れない?」
「そんなんじゃ、」
「…我侭とか、嫌なこととか、もっと俺に預けてよ、」
 誤魔化そうとしたあたしの声を容赦なく遮って、水都は言った。その声は静かに怒っていて、泣きたくなった。頼れるわけ無いのに。預けられるわけ無いのに。それならどうして、水都は他の人でバランスを取るの?
 何も言わないあたしに水都は腕を緩めて、あたしは振り向けないまま、逃げるように水都のアパートを後にした。
 水都とは、一年の後期の、英語の授業で出会った。やたらと席替えやらディスカッションやらをする授業で、何度か話をしたことはあったけれど、最後の授業のあと、映画に行きませんかと誘われた時には驚いた。遊んでそうな外見とは裏腹に、心底緊張したみたいな表情をして、視線を泳がせて。その様子があんまり意外で可愛かったから、あたしは映画を承諾して、何度目かのデートの帰り道、正式にお付き合いをすることになった。あたしは水都のことを何も知らなかったけれど、屈託のない笑顔が眩しくて、もっと知りたいと思ったのだ。でも、一ヶ月もしないうちにあたしは水都のアパートで、香水の残り香や誰かの忘れ物を頻繁に見つけるようになった。
 付き合ってください、と言われて頷いた時の、水都の嬉しそうな顔を、今も覚えている。水都の笑顔は少しも変わらない。優しさも、少しも変わらない。それなのに、事情は変わってしまった。水都が好きなのに、知るのが怖い。預けるのが、怖い。
 水都と何度も歩いた道を1人で歩きながら、取り留めのないことを考えた。あたしは、水都の何を、信じて、手を伸ばせばいいの。初秋の夜風に頬が冷えて、涙が零れた。


 次の日、泣き腫らした目で現れたあたしのために、羽村くんはレモネードをつくってくれた。掬ったハチミツがスプーンから、真っ直ぐカップに落ちる。白い指に、線の細い指輪が外の光を反射するのが目に入った。
「羽村くんは、詩緒ちゃんを信じてる?」
 あたしの質問に羽村くんはちらりと視線を上げて、また手元のレモネードに視線を落とす。
「…好きだけど、あんまり信じてない。詩緒の我侭も浮気性も、今に始まったことじゃないし。」
 その言葉に、あたしは驚いた。羽村くんなら、信じてるよと即答するような気がしていたから。
「…手放せたらどんなに楽かと思うよ。」
 カップの中身をぐるぐる掻き混ぜて、羽村くんはあたしにカップを差し出した。羽村くんは、好きだから、信じられなくても許してしまうのだと言う。そっか、そういうことなんだ。羽村くんは、あたしといるとき決して指輪を外さなかった。あたしも、誕生日に水都に指輪をもらって以来、羽村くんの前でそれを外したことはない。多分、羽村くんといるときにあたしの中から水都がいなくなることがないのと、同じなのだろう。
礼を言って受け取ったレモネードは優しい味がして、羽村くんの哀しみが詰まっている気がした。

5.
自分の分のレモネードを飲み干して、羽村くんはハチミツの瓶を抱えた。手を滑らせて、間一髪で逆さまの瓶の口を掌で受け止める。床への被害は免れたものの、白い掌には琥珀の液体がべっとりついている。
「あー、勿体無いな。」
呟いて、羽村くんは目の前でそれを舐めた。絵の中みたいな光景に、あたしは見惚れてしまう。羽村くんは、やっぱり色っぽい。あたしの視線に気づいた羽村くんは、目の前で意地の悪い笑顔を浮かべた。
「どうしたの?」
「…羽村くん、ハチミツ似合うなと思って、」
「何それ、」
 笑いながら、ハチミツのついた指先を近づけてくる。その指先を視線で追っていると、羽村くんの指が唇を撫でた。ハチミツの甘い香りが、近い。羽村くんの指は唇をなぞって、隙間から侵入してきた。歯茎をなぞって、ゆっくり出て行く。口の中に、濃厚な甘さが広がった。羽村くんはそれを見て、悪戯に目を細める。
「…今日は使っちゃおうか、コレ。」
「使う?」
 首を傾げるあたしの手を引いて、羽村くんは浴室に向かう。目の前でさっさと服を脱いで、おいで、と手招きした。
「忘れるのが一番、」
 慰めてくれる積もりなのだと気づいて、あたしも裸で明るい浴室に飛び込んだ。水の入ってない湯船の中で向き合って、やっぱり恥ずかしいなと思う。視線を泳がせるあたしに羽村くんは綺麗に笑って、佐伯さんはいつまで経っても慣れないねと言った。ハチミツのたっぷりついた羽村くんの掌が、ゆっくりあたしの胸に触れる。冷たい。
「ひゃ、」
 思わず身を竦ませると、羽村くんは吐息で笑った。余裕の表情が悔しくて、あたしも傍らの瓶に手を伸ばして、ハチミツを掌に零した。ほんの少し指輪が気になって、けれど、外すのはやっぱりやめた。
「あたしも、…ん、する、」
「どうぞ、」
 あたしはハチミツのついた手を、羽村くんの足ではなくて胸に伸ばした。胸の飾りに執拗に塗りたくると、彼は驚いたみたいに、こら、と言った。無視して丹念に胸の突起を撫でていると、心なしか立ち上がってくる。
「佐伯さん、こら、やめ…っ、は、」
 羽村くんが色っぽい声を出して、あたしの胸を包む指に力が篭った。
「んっ、」
 息を零して、あたしは彼の胸に顔を寄せた。舐めると、羽村くんの身体は文字通り甘い。羽村くんの肩が震えたのに気をよくして舌を絡めると、頭上で羽村くんは吐息を零す。視線を落として目に入った羽村くんのそれは、何時の間にか立ち上がっていた。頭上で一際大きな吐息が聞こえたと思ったとき、胸を離れた羽村くんの手が、あたしの肩を押した。引き剥がされて睨むと、羽村くんもあたしを睨んだ。真っ黒な瞳は潤んでいて、迫力など無かったけれど。
「羽村くん、可愛い。」
 あたしが言葉に、羽村くんは毒気を抜かれたみたいな顔をした。
「…今度は俺の番。…触るならこっちでお願い。」
 羽村くんの手があたしの手を自らに招いて、あたしは頷いた。羽村くんがハチミツの瓶を、そのままあたしの身体に零す。浴槽の縁に凭れて、甘い香りに目を閉じた。マッサージするみたいに撫でられて、指の辿る道筋を目蓋の裏で追った。そのうちに、羽村くんの舌があたしの身体を舐め始める。全身をコーティングするハチミツを、全部舐め取るみたいに、丁寧にあたしの身体をなぞる。擽ったくて、優しくて、温かかった。
「ん、ふ…、」
「力抜いて、」
 羽村くんが囁いて、準備万端のそこに、ゆっくりと、羽村くんの熱が入ってくる。していることは水都と同じ筈なのに、全然そんな気がしない。多分、あたしと羽村くんが、同じだからだ。
窓からまっすぐ伸びたハチミツ色の夕陽が、浴室を染める。彼といると、あたしは自分を見失わなかった。レモネードの中のハチミツみたいに、ただ優しくて、ただ、平穏で、ずっと、人ごとみたいに切なかった。

6.
 大学祭二日目の日曜日。あたしは水都の仕事振りを見ようと思い立って、大学を訪れた。水都が、よく来たねと笑ってくれるんじゃないかと、一縷の望みを抱えて。
あの些細な諍いのあと、水都は何も無かったみたいな顔であたしのアパートを訪れた。けれど、誤魔化しきれない気まずさは確かに存在していて、僅かなきっかけで簡単に壊れてしまいそうだった。もう随分、水都の笑顔を見ていない気がする。
 サークルで出店している和カフェに、水都はいなかった。杏仁豆腐を運んできた浴衣姿の男の人に聞くと、タバコを吸いに行って連絡がつかないのだと言う。名前伝えておきます、と言ってくれるのを辞退して、殊更ゆっくり杏仁豆腐を食べたけれど、水都は戻ってこなかった。視線を巡らせて詩緒ちゃんもいない、と気がついて、邪推する自分が少し嫌になった。
 カフェを後にした後、何となく消化不良のまま、歩き回った。昨日水都と回ったときはあんなに楽しかったのに、1人で味わうお祭りの高揚は、味気ない。無意識に人気を避けるうちに、『通り抜け出来ません』と張り紙のされた非常ドアに行き着いた。
踵を返そうとした時、どこかから水都の声が聞こえた気がして、足を止めた。ドアの向こうで、物音がする。嫌な予感がした。見ないほうがいい、分かっていたのに身体は言うことを聞かなくて、顔の高さについた小さな窓から、外階段を覗いた。
 予想通りの現実が、そこにあった。壁に凭れる水都の上に、詩緒ちゃんが向かい合う形で座っている。水都も詩緒ちゃんも肌蹴た浴衣から、綺麗に焼けた肌が見えた。心臓が早鐘を打つ。目の前で二人は長いキスを交わした。長い、キス。水都の浴衣の袖を握る細い指に、羽村くんのと同じ指輪が光っているのが目に付いた。
「皺にならない方法ないかな?」
「さっさと済ませればいいんじゃないか?」
「さっさと済ませるなんて、ひどい。」
「はいはい。」
 水都が詩緒ちゃんの肩に唇を滑らせながら呟いた。あたしは足の力が抜けて、ドアの前に座り込んだ。その間も、ドアの向こうでは「さっさと」行為が進んでいるらしく、吐息の混じった二人の声が聞こえた。
「ン…ねぇ、昨日彼女と来てたんだって?見逃しちゃった。」
「…詩緒には見せない。余計なこと言いそう。」
「失礼ね。…水都の彼女苛めたりしないよ。仲良くしたいな。…あ、」
「ダメ。麻代は詩緒とは違うんだよ、」
「ふ、はぁ…どう違うの?」
「…麻代とはこんなこと出来ない。」
「…ふふ、あたしも煌とはこんなこと出来ない。水都といると楽しい、」
「俺も、詩緒といると楽しいよ。」
 忍び笑いと、衣擦れの音と、湿った音。あたしが目を逸らしてきた事実。…あたしと羽村くんのしていることでも、あるけど。詩緒ちゃんと水都のキスシーンが目の前をちらついて、頭ががんがんした。
 ここにいるのはマズイ、とやっと身体が理解して立ち上がった。足に力が入らなくてドアに手を突いて身体を支えると、ガラス越しにキスの合間の水都と目が合った。水都が驚いたみたいに詩緒ちゃんから身体を離す。あたしはどんな顔をしていいのか分からなくて、踵を返す。鍵のかかったドア越しに、麻代、と呼ぶ水都の声が聞こえた気がしたけれど、振り向けなかった。
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