蜂蜜色の夏
7.
 羽村くんのアパートの階段に身を潜めて、泣きながら電話を掛けた。羽村くんはあたしの声を聞いて、優しい声で、今からおいでと言ってくれた。
 羽村くんは出掛けだったみたいで、詩緒ちゃんから貰ったという黒いシャツを着ていた。それなのに、抱きついて泣きじゃくるあたしの背を、何も言わずに優しく撫でてくれる。あたしの逃げ場は、羽村くんだけだ。羽村くんとなら、許すとか信じるとか、考えなくていいのに。
「…羽村くんと付き合いたい、」
「………本気で言ってるの?」
「本気よ。…許すとか、信じるとか、もうやだ。もう、逃げちゃいたい。」
 自分でも散々な言い分だと思った。あたしと水都はいつだって異質で、何を考えているのか少しも分からなくて、羽村くんは、何も言わなくても分かってくれるのに。違うから好きで、違うから知りたかった。だけど、違うから、もうずっと、怖くて。あたしはこのまま、羽村くんに逃げたかった。
「…俺もね、俺も、そう思ってた。佐伯さんに声かけられた頃。」
 羽村くんの声は優しかった。諭すように、あやすように紡がれる、その声を聞くと気持ちが凪いだ。
「…許すのに疲れて、浮気しようと思った。今だから言うけど、相手は誰でも良かったんだ。たまたま自分に声かけてきたのが高瀬水都の彼女だったから、佐伯さんに提案した。…佐伯さんで良かったって今は思うけど。佐伯さんと俺は同じだったから、すごく慰められた。同じ温度で、一緒に笑えて、すごく楽しくて、楽だった。」
 羽村くんは、いつだって優しかった。いつだって、彼はあたしに差し出した腕で、自分を慰めていたのだ。自分に無かった逃げ場を、あたしに提供していたのだ。だから、ずっと、彼といると哀しかったのだと、気がついた。
もしも、あたしが本気で彼に逃げたいといえば、彼はきっと承諾してくれる。恋ではないと分かっていて、あたしの甘えを受け止めてくれるだろう。だからこそ、言ってはいけない気がした。彼の静かな哀しみはそれだけ深くて、激しい。その暗がりを、あたしは初めて、目にした気がする。
「―――俺ね、踏ん切りがついたんだ、少しだけ。俺は今まで詩緒に負けっぱなしで、詩緒と別れるなんて無理だと思ってたけど、佐伯さんと居て、詩緒以外の女の子を大切に思えるって知った。…でも佐伯さんは、このまま俺に逃げたら後悔するんじゃない?」
 後悔しないなんて言い切れなかった。あたしにはいつだって、逃げ場があって、恋じゃないのに抱き締めてくれる、一番優しい腕があって。でも、それでも水都は、あたしの中からいなくならなかった。一度として交わすことの無かった口付けと、外すことの無かった指輪が、その答えだ。あたしに、羽村くんの孤独は癒せない。癒せるのは、いつだって羽村くんを支配する詩緒ちゃんしかいないんだろう。黙って頷いたあたしに、羽村くんはすごく優しい声でうん、と言った。

8.
 携帯の電源を切ったままアパートに帰ると、部屋の前に浴衣姿の水都が座り込んでいた。人影に気づいた途端踵を返しそうになって、けれど、今まで逃げ場を提供してくれた羽村くんのくれた優しさが浮かんで、思い留まった。逃げるのは楽だけど、逃げても気持ちは無くならない。蟠りも、嫉妬も、痛みも。
「……水都。学祭は?」
「行ってない。ずっと待ってた。…話したくて。」
 鍵を開けて、水都を招いた。暗い室内は、夏の熱気が篭っていて、息苦しい。窓を開けて、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出して、決戦を引き延ばしたいと足掻くあたしは、やっぱり往生際が悪い。逃げたくは無い。やっと、そう思えた。
 水都の前にコップを置くと、その手を強く掴まれた。水都は怖い顔をして、あたしを睨む。
「なんで責めないの?…いつもそうだ、麻代は。他の女とやってるとこ見て、なんで何も無かったみたいな顔できるんだよ?」
 直接的な言葉を受けて、思わずびく、と身体が震えた。人の怒気には慣れない。何から話せばいいんだろう。言葉を捜しているうちに、水都は苛立ったように舌打ちをして、あたしの腕を思い切り引く。乱暴にあたしを倒して、水都はあたしに圧し掛かってきた。水都はあたしを、話す価値すらないと判断したのだろうか。冗談じゃない、こんな。
水都はあたしの首に口付けた。抵抗を無視して、たくさんの所有印を散らす。頭1つ背の高い水都に全身で圧し掛かられて、押し退けられるわけ無い。あたしは必死で辺りを探った。このままじゃ、完全に修復なんて出来なくなる。かつ、と指先が硬いものに触れて、それを水都に向かって投げた。
派手な音がして、あたしの上で水都が小さく呻いた。続いて缶の転がる音と、細かいものの散らばる音が部屋に響く。水都は自分を襲った缶と、その中から出てきたアクセサリーに視線を向ける。隙をついて、あたしは水都を押し退けた。
「言えるわけ無いじゃない。あれ全部、水都の部屋の誰かの忘れ物なの。あたしのじゃないピアスとか、指輪とか、水都の部屋に行くたびに見つけるのに、一体どれを責めればよかったの?なんであたしに声掛けたの?あたしは水都の何を信じればよかったの?こんなにたくさん、香水はいつも同じのがシーツに残ってて、向こうの方が本命かもしれないじゃない。」
 言いながら、そんな積もり無かったのに、涙が出てきた。たったこれだけ。言葉にするとなんて簡単なんだろう。でも、たったこれだけが、言えなくて、あたしは随分遠回りをした。呆然とあたしを見ていた水都は指を伸ばしてきたけれど、触れる前に身体を引いた。
「もうやだ、触らないでよ、」
「…ごめん、麻代、」
 水都の腕が、ゆっくり床に下りる。ごめん、と何度も何度も水都は言った。そうして、ぽつぽつ言葉を紡いだ。
「…俺、麻代に好かれてないんじゃないかと思ってた。ずっと、なんで麻代がオッケーしてくれたのか分からなくて、不安で、そんなときにサークルの子に声掛けられて、…最初から遊びだったんだ。莫迦みたいだけど、麻代に気づかれてるなんて思わなかったから、麻代が俺に壁をつくるのが、すごく、嫌だった。そんなに傷つけてたなんて、気づかなくて、ごめん。」
 あたしは視線を落として、拒絶した無骨な指をじっと見詰めていた。水都は話しながら、何度も指先に力を込めた。…水都の気持ちなんて、初めて聞いた。話してくれなかったからじゃない。あたしが聞こうと、しなかったから。
「…許してくれなんて、言えないよな。」
 寂しそうな声で言って、水都は立ち上がった。終わりになっちゃう、と思った。言わなくちゃ。だって、水都だけ悪いわけじゃない。全部、言わなきゃ。
「待って!…水都が悪いわけじゃないの、だって、」
 水都があたしを振り返る。真剣な表情から目を逸らしそうになって、あたしは自分を叱咤する。あの優しい腕を、無駄にはしない。あたしに出来るのは、水都への気持ちを、後悔で終わらせないことだ。
「あたし、…浮気してたの。水都の浮気に気がついて、自棄になって。でも今日、この目で見て、…嫌だった、すごく。あたし、浮気しててもキスはしなかったのに、水都は目の前であの子とキスしてて、自分のこと棚に上げて水都のこと責めたくなった。他の人に逃げたら楽だったけど、…水都のこと、ずっと好きなままだった。」
 水都は信じられないと言いたげに目を見開いていた。あたしにとって水都が最低なのと同じように、水都にとってあたしは最低だ。でも、言わなきゃ。水都にぶつけないと、どこにも進めない。
「…あたしの方こそ、許してなんて言えない。だから、水都が悪いわけじゃないの。あたし、水都のこと許す資格なんて無いよ。とっくに失くしちゃった。」
 水都はゆっくり、あたしの前に膝をついた。戸惑ったような表情で、あたしの頬を撫でる。
「……全然、気付かなかった。」
「…ごめんね。」
「……責めたいけど、俺にもその資格は無いんだ。」
 水都が力なく笑って、随分長い沈黙が下りた。あたしは最後になるかもしれないと思って、水都の指に手を重ねた。この感触を、覚えていよう。そう思って、目を閉じた。不思議と、気持ちは晴れていた。
「…麻代、この唇は、まだ俺のものなの?」
 もう片方の手が、唇をなぞった。真剣な表情。頷くと、水都は目を伏せた。息をついた後苦い顔をして、ゆっくり、あたしの唇にキスをした。

9.
 眠っている水都を起こさないように気をつけながら、ベランダに出た。朝6時。空の青が、少しずつ薄らいでくる。3回目のコールで、羽村くんは電話に出た。
「おはよう、…早くからごめんね。」
『いや、起きてたよ。…佐伯さん、すっきりした声してる。』
 言葉どおり、羽村くんの声は眠気など感じさせない。
「え、そう?」
『うん。…ちゃんと話せた?』
「話せたよ。初めて、ちゃんと喋った。」
『うん。』
 聞きなれた羽村くんのうん、にあたしは何故だか泣きそうになる。あたしの恋は水都にあって、羽村くんの恋は詩緒ちゃんにあって、あたしたちの間にあるのは恋じゃなかった。この気持ちは一体なんなんだろう。答えを知る日は、きっともう、来ないけれど。
『…俺さ、昨日詩緒と約束してたの、あの後すっかり忘れちゃって。俺が詩緒との約束を忘れたことなんて無かったから、詩緒が血相変えてアパートに来たんだ。あんな必死な顔初めて見たから、ちょっと嬉しかった。』
「良かったね。」
『うん、』
太陽が上がって、空が優しく染まった。大切な記憶を、たくさん思い出す。図書館で声を掛けた日の、不機嫌な声。初めての時、声を上げて笑った顔。優しくて哀しい、レモネードの味。
「…羽村くん、夜明けの空が、ハチミツ色。」
『ホントだ。…懐かしいな。楽しかった。』
「…あたしも。こうして考えると、短かったんだね、」
『あんなに濃かったのに。』
「うん、そう。…ありがとう。」
『俺の方こそ。…佐伯さん、好きだよ。…言ったこと無かったね。』
「…あたしも。羽村くん、大好き。」
 気持ちを言葉にしたのは、これが最初で最後だ。電話越しに忍び笑いを交わして、幸運を、と告げた。羽村くんはやっぱりうん、と優しく呟いて、電話を切った。
 あたしはもう、水都を、恋を、恐れることはないと思う。たくさん遠回りをした蟠りが、簡単に溶けるなんて思わないし、上手くいくかなんて分からない。だけど、いつか水都と道を分かつことがあっても、あたしの中には、羽村くんとの歪な蜜月がずっと、あって。そうして、歩いていけるような気がした。
 2005/08/20
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