蜂蜜色の夏
1.
 水(みな)都(と)がシャワーを浴びている間に、白いシーツに指を滑らせるのは、この部屋に来た時のあたしの日課。指先に違和感が無くてほっとしたのも束の間、あたしはベッドの足の傍らに、光るものを見つける。取り上げたそれはピンクのパールが揺れるピアスで、蛍光灯の灯りを反射して柔らかな光を放った。あたしはそれを、持参した煌びやかな缶に落として、しっかり蓋をした。
 缶を抱えてぼんやりしていると、水音が止まって、あたしは慌てて缶をバッグに仕舞った。間一髪で姿を現した水都は、あたしと目が合うと邪気の無い笑顔を浮かべる。あたしはそれに胸がいっぱいになって、同時にすごく気持ちが沈んだ。水都といると色んな感情が一息に押し寄せてくるから、あたしはいつも、自分がどうしたいのか分からなくなってしまう。無骨な指を、独占したくて、責めたくなる。無防備な笑顔を守りたくて、許したくなる。水都が、この部屋に残るベビードールを気にして、換気をよくしてくれる間は、大事にされているような気がして、そんな水都の不器用さをこそ、愛しているような気がした。水都を思うあたしは、いつも、矛盾に満ちている。
 ゆっくりあたしをベッドに沈めて、水都は唇で頬を撫でた。擽ったい。
「麻代(ましろ)、元気ない?」
「…そんなこと無いよ?」
「じゃ、違うこと考えないで、」
 どうして分かったんだろう。あたしは手を伸ばして、水都の首を抱えた。
「考えてないよ、」
 水都は目の前で寂しそうに目を伏せて、濃厚なキスをくれた。キスは好き。水都と付き合って3ヶ月。恋愛初心者のあたしは、すぐに酸素が足りなくなってしまうけど、水都はそんなこと無いらしくて、そのキスは、いつも、長い。何度も角度を変えて、奥まで水都の舌がなぞる。型でも採るのかってくらいベッドに沈んで、あたしは水都の舌に翻弄される。上の歯の裏をなぞって、口蓋を辿って、下の歯茎をなぞって、いきなり酸素が帰ってくる。長いキスに息が止まって、そのまま水都に食べられたいなんて思うあたしは、待ち侘びた酸素を、少しだけ悲しい気持ちで吸った。
 キスのあと、水都はあたしの服を脱がせた。指先が両足を割って、そこに触れる。不意に訪れた刺激に、びく、と太腿が揺れた。水都の指は確かめるみたいに何度かそこを滑って、侵入を試みるものの、濡れていないためにそれは叶わなかった。水都はあたしの唇に軽いキスを仕掛けてから、太腿を抱えなおして、あたしのそこに唇をつけた。ざらざらした感触に、息を詰める。全然濡れないあたしのそこを、水都はいつも丹念に舐める。恥ずかしいしやめて欲しいけど、しないと麻代がキツイから、と言われると何も言えなくなる。されても異物感は残るけど、されないよりはマシだと思うし。
 丹念なそれに、息が上がる。あたしの吐息と、ぴちゃぴちゃと湿った音が響く。
「……ごめんね、」
 息を零しながら、顔を埋める水都の髪に指を絡めて呟くと、水都は、謝られるとなぁ、と苦笑いする。追い討ちを掛けるみたいに、シーツに染みたベビードールの香りが鼻についた。

2.
 夏休みに入ってすぐ、市民図書館で羽村煌(はねむらこう)を見た。羽村煌は艶やかな黒髪と、真っ直ぐ伸びた背中が印象的な同級生だ。同じ専攻だけど、一度テスト前にノートを貸したことがあるくらいで、特に話をした記憶は無かった。
 市民図書館は冷房が壊れているのか、すごく暑い。羽村くんは扇子を仰ぎながら、緩慢な動きでページを捲る。右手の薬指に光る指輪に目を奪われて、気づくと傍らで足を止めていた。彼の手元が微かに翳る。ゆっくり視線を上げた黒瞳は、何処か不機嫌そうだ。
「羽村くん、お昼まだなら、一緒しない?」
「…俺と?」
「うん。勿論、割り勘で。」
 冷たい視線に怯まずに言うと、彼は考え込むように視線を巡らせて、にこりともせずにいいよ、と言った。
 図書館の近くのカフェで、あたしはベーグルサンドを、彼はパスタを食べた。ぽつぽつ他愛の無い話をしていると、彼が呟いた。
「大人しいね。」
「え、そう?」
 あたしは会話が思っていたより続くことに安堵していたので、慌てた。焦って瞬きを繰り返していると、羽村くんはじっとあたしを見たあと、視線を滑らせて苦笑した。
「いや、いつも騒々しいのといるから。」
「彼女?」
「うん。…分かってて声掛けてきたのかと思ってたんだけど、違うの?」
 羽村くんは探るみたいにあたしを見たけれど、何のことなのか想像もつかなかった。謎かけでもされているような気がして、首を傾げる。
「分かってて?大学の人?」
 羽村くんは食事を再開するために視線を落とした。そうして、不自然なくらいさり気なく、名前を紡いだ。
「科は違うけど、早川(はやかわ)詩(し)緒(お)。」
 あたしは目の前の人物を見詰めたまま、固まってしまった。詩緒ちゃんと呼ばれる彼女は、水都と同じサークルの女の子で、水都の浮気相手だ。羽村くんと付き合ってるなんて、知らなかった。羽村くんはふ、と息をついた。
「本当に知らなかったんだ。…まあ、あんまり言ってないからな。」
「ごめんなさい、あたし…」
 羽村くんは緩く首を振って、あたしの言葉を遮る。だから、声を掛けたときも、ご飯を食べながらも棘があったのだと今更気づいた。
「立場はお互いさま、」
 羽村くんの声は柔らかかった。言葉を捜して視線を泳がせるあたしに苦笑して、吸い込まれそうな真っ黒な瞳であたしを見た。テーブルの上の右手を擽るように彼の指が滑る。あたしはそこに光る指輪に視線を奪われて、それから彼の顔を見た。目が合うと、彼は口の端を上げた。意地の悪い笑顔。
「佐伯さん、俺と浮気しない?」
 心臓が早鐘を打つ。水都の他愛の無い笑顔と、廊下で詩緒ちゃんと擦れ違うと香るベビードールと、羽村くんの誠実な薬指と。色んなことがぐるぐるして、息を呑む。真っ黒な瞳に魅入られてしまったみたいに、あたしは頷いていた。

 綺麗に片付けられた、学生にしては広い部屋は、やっぱり微かにベビードールが香った。羽村くんは、カフェでの緊張感なんてウソみたいにあたしに優しかった。
 唇へのキスはなし。痕はつけない。人目を避けて歩きながら考えたルールは、どんなに考えても使い古されたものしか浮かばなかった。約束を忠実に守って、あたしと羽村くんは抱き合った。羽村くんの指が、丁寧にあたしの身体をなぞる。薬指のリングの無機質な感触に、身体が震えた。
「ん、…や、」
 昼の室内は灯りを点けなくても十分明るくて、恥ずかしさにいや、と呟くたびに、彼は指を止めた。
「やめようか?」
「え、あ…大丈夫、」
 水都は優しいけど強引なところがあって、あたしの「いや」を聞いてくれた例が無かった。だから、羽村くんが手を止めたことに驚いた。しどろもどろの返事を虚勢と受け取ったのか、羽村くんは苦笑する。
「本当に?もう聞かないよ?」
「大丈夫。あの、癖なの、いやっていうの、だから、気にしないで。」
 言葉を選びながら告げると、羽村くんは目を細めた。優しい表情に、少し安心する。
「ダメな癖だな。じゃあ、本当に続けるよ?」
「どうぞ。」
 真面目に頷くと、羽村くんはどうぞって、と言いながら声を上げて笑った。
「じゃあ、えーと、本当にいやなときは、何でもいいから叩いて。俺でもいいし、ベッドでもいいし、噛んでもいいよ。」
優しいなあ、と思った。あんなに悪そうな表情で提案したのに、あたしの気持ちを一番に考えてくれるみたいだ。八つ当たりで乱暴にすることも出来る筈なのに、根が優しい人なんだろう。
「…何する気なの?」
 軽口を返すと、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。釣られて、あたしも笑う。楽しかった。羽村くんは笑いの止まらないあたしの首筋に唇を滑らせながら、はいはい始めますよー、と何ごっこなのかよく分からないことを言って、行為を再開した。忍び笑いを交わしながら、こんなに簡単なのかと思うくらい力が抜けた。
ほんの少しの罪悪感と、同じキズ。羽村くんの空気は、とっても確かで、とっても、優しかった。

3.
「麻代、すっごい濡れてる。」
長いキスの合間に、水都の指が下着の上から触れて、濡れた音があたしの耳にも届いた。その声を聞いて一気に顔が熱くなるのが自分でも分かったけれど、水都は涼しい顔で、あたしの顔に優しくキスを降らせた。
八月も後半。羽村くんと浮気をするようになって、あたしは少しだけ気持ちが軽くなっていた。微かな残り香にも耐性がついて、心なしか、水都とのときも、力を抜けるようになってきたような気がする。こんなに濡れたのは、初めてだけど。
キスの合間も下着の下に潜り込んだ指が、確かめるみたいに何度も何度も敏感な部分をまさぐる。ベッドの上で向き合ってキスを交し合っていたあたしたちはまだ服を纏ったままで、湿った音が余計に恥ずかしかった。
「や、あ…っ、」
「…可愛い、」
 水都が下着から手を抜くと、その指はあたしから溢れたもので濡れていて、蛍光灯の灯りを受けて光った。水都は手早くあたしの下着を脱がせて、足を抱える。反動であたしはベッドに倒れた。タンクトップもスカートも着たままで、灯りも点いてて、ベッドの上で水都に濡れたそこを曝している。耐えられなくて、せめて灯りは消して欲しいと懇願したけれど、却下された。
「やだ、水都…お願い、見ないで。」
 あたしの懇願をあっさり無視して、水都はスカートの下に潜り込んだ。止めようと慌てて起き上がろうとしたけれど、一瞬早く水都の唇がそこに触れた。
「アッ、」
 声を上げて、身体を支えていた腕はシーツを滑った。
「は、あっ、ン、」
 声が止まらない。あたしは起き上がるのを諦めて、両手でぎゅっとシーツを握った。零れる声が恥ずかしくて、唇を噛んでいると、水都がスカートの中で舌を這わせながら、声聞かせて、と言った。できない、と言おうとして、口を開いたら声が零れるのが分かっていたから、あたしは必死で首を振った。それが伝わったのか、水都はあたしの、一番敏感な突起に軽く歯を立てた。あたしは悲鳴みたいな嬌声を上げて、目の前が真っ白になる。内側が、切なげに収縮するのが分かった。
 肩で息をつきながら目を開けると、いつの間にスカートから顔を出していた水都と目が合った。唇が濡れているのが見て取れて、目を逸らせずにいると、水都は何気ない仕草で唇を舐めた。
「…麻代、入れてもいい?俺も、限界。」
 頷くと、水都は手早くゴムをつけて、あたしの足を抱え直した。指より確かな異物を宛がわれて、息を吐いた。熱を吐き出したばかりで、まだ、体中がじんじんする。ゆっくり水都が入ってきて、あたしの内側は歓迎するように蠢いた。
 見上げると、水都はすごく真剣な表情をしている。汗が、焼けた肌の上を滑ってあたしの胸に落ちた。小さな刺激にも反応して息を零すと、水都が手を伸ばして頬を撫でた。水都のお腹が足に当たって、全部入ったのだと気づいた。目が合った水都は、嬉しそうに笑った。この状況でそれは反則。身体の熱さに温かさが混ざって、泣きたいくらい幸福だと思った。笑顔を返して頷くと、水都は動き始めた。

 夕方、水都は車でアパートまで迎えに来た。その日はあたしの誕生日で、おめかしして来て、と言われたので、買ったばかりの黒のシフォンワンピースを着た。運転席の水都はスーツなんて着ていて、焼けた肌と白い歯のバランスがホストみたいだと思った。けれど、助手席に座ったあたしに目を細めて、ワンピース似合ってる、と言ってくれたのでそれは飲み込んだ。
 この頃水都は、サークルでの、夏休み明けに控えた大学祭の準備で忙しい。それは羽村くんの彼女の詩緒ちゃんも同じなので、あたしと羽村くんはお互いのバイトが無い日の、昼に会っている。場所は、互いのアパートが多かった。
「何処行くの?」
「着いてのお楽しみ。」
 楽しそうに笑って、水都は愛車を走らせた。水都の笑顔は太陽みたい。明るくて、無防備で、無邪気で。だから、どうしても惹かれてしまう。見るたびに、眩しくて。
目的地は西にあるみたいで、車はひたすら夕陽を追いかけた。直視できなくて瞬きを繰り返していると、信号待ちで、水都がキスを仕掛けてきた。触れるだけの、優しいキス。目を開けると、夕陽を遮った水都は照れたみたいに笑った。
「…俺の方向いてたら眩しくないかもよ、」
 信号が青になって、水都は運転を再開する。言われたとおり横顔を眺めて、好きなところを数えていた。彫りの深い骨格。短い睫毛。首のライン。こうして見ると、水都と羽村くんは正反対だ。羽村くんは肌が白くて純和風の、人形みたいに綺麗な顔をしている。じっと見ていると、水都は横顔のまま擽ったそうに笑って、左手を差し出してきた。指を絡めると、いつも冷たい掌が、少し汗ばんでいた。
「…学祭が無かったら麻代ともっと一緒に居られるのに、ごめんな。」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。理解して、心臓が壊れそうなくらい嬉しくなって、同時にすごく気持ちが揺れた。これ以上水都といる時間が増えるのは、怖かった。
「……ううん。」
 戸惑いを隠すみたいに俯いて、繋いだ指に力を込めると、水都もそれに応えてくれた。目的地の綺麗なホテルのレストランで食事をした後、水都はあたしに線の細いシルバーリングをくれた。恭しく薬指に嵌めて、キスをした。胸がいっぱいになる。
ベビードールの残り香も、水都の部屋で見つける忘れ物も、状況は変わっていないのに、あたしはどんどん水都を好きになる。好きすぎて泣きたくなる気持ちを、あたしは羽村くんといることでバランスを取っていた。もしも、これ以上水都といる時間が増えてしまったら、途端にあたしはバランスを崩すような、そんな予感に怯えた。

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