夕陽に沈むスタンド


あたしが一人で思い出す高橋は、横顔が多い。
そしてその横顔は、授業中に、黙ってノートをとっているときの横顔とも、廊下で部活のメンバーと話をして笑っているときの横顔とも、全く異なる。
高橋の横顔。キャッチャーマスクを被って、鋭い視線でグラウンドを見つめる。ちらりともあたしを見ない、横顔。あたしは、グラウンドにいるときの高橋が一番好きだ。あたしのことなんて忘れちゃって、自分の居場所に全てを注ぐことの出来る、彼が好きだ。


放課後、校舎の隅にある放送室はあたしの居場所になる。コンクールも終わったばかりだから、入り浸る必要はまったくないのだけど、あたしはここに入り浸る。理由はひとつ、此処からグラウンドが一望できるからだ。
窓から見渡すグラウンドでは、試合を模した練習が行われている。グラウンドの奥、散らばった野球部員は、白いボールの動向に合わせて動く。高橋は丁度キャッチャーをしていて、ユニフォームの白が、ぽつんとグラウンドに落っこちているように見える。
「…何してんの」
背後から、ため息の混じった声が落ちてきた。あたしはぎくりと身体を強張らせる。振り向いたそこには、幽霊部員の桜が腕組をして立っていた。
「何でもいいじゃん。」
むすっと呟くと、桜は大袈裟なため息をつく。
「どうせ野球部見てるんでしょ。わかるけど、それはやめなさい。」
桜が指さしたのは、さり気なさを装って隠した双眼鏡だった。
「だってさぁ、野球部の練習してるとこ遠いんだもん。全然見えなくて。」
「見たって高橋は後姿じゃん。」
「もう、わかんない女だな桜は。」
「わからなくて結構。一緒に帰る約束ができて、どうして練習見る約束ができないの?さっぱりわかりませんね。」
「そんなことしたって邪魔になるだけじゃん。」
「えー、案外嬉しいかもよ?」
「そんなんじゃないの。見世物になるのも、高橋があたしに気付くのもいやなの。」
「ふぅん?もっと自信持っていいんじゃない?一緒に帰るようになって随分経つんじゃない?」
「……そう、だけど、ま、今はいいかなーって、思ってるんだよ。」
自信の問題じゃない。遠慮しているわけでもない。だけど、これ以上説明するのも面倒な気がして、あたしは適当に話を濁した。
多分、あたしが高橋に抱いている気持ちは、少しばかり異色なものなのかもしれない。
四六時中一緒にいたいだとか、独占したいとか、映画に行きたいとか、そういった気持ちはそれほど強くない。
あたしは高橋が好きだ。柔らかい相槌、ファーストフードに寄り道したとき、まっすぐ目を見て話を聞いてくれるところ。熊みたいな相貌の彼が、はにかむように笑う姿は、最高に可愛いと思う。けれど、高橋のそういうところが決め手になっているわけではない。
「あ」
声を上げたのは桜だった。とっさに双眼鏡を覗く。
夕陽に染まるグラウンド、曲線を描く白いボールが、ネットに阻まれて力なく転がった。
立ち上がって、高橋はマウンドにいる鈴木くんのところに向かう。鈴木くんと話す高橋は、やっぱり、あたしの知らない顔をしていた。


下校を告げる校内放送のあと、随分経ってから高橋は姿を現す。門にもたれて、あたしは高橋を待つ。うっすらうっすら、学校が夜の中に沈んでいくのを見詰める。
「ごめん、待った?」
「そんなに待ってないよ。練習お疲れさま。」
グラウンドの外にいる高橋は、別人のように雰囲気が柔らかくなる。いつも待たせていることをすまないと思っているのか、高橋は少しすまなそうな表情で笑う。
「高橋、じゃーなっ」
高橋に声を掛けたピッチャーの鈴木くんは、あたしと目が合うと意味深な笑いを浮かべる。鈴木くんは目立つ風貌をした男の子で、下級生からも人気があるけれど、あたしはあまり好きではない。目ざとくて、油断ならない人物だ。あたしが欠かさず試合を見に行っていることにも気付いている。幸い、高橋には言っていないようだけど。
「そういえばさ、いつも放課後何してるの?部活とか?」
帰り道、高橋は穏やかに疑問を紡いだ。あたしはそれを聞いて、思わず何度か瞬きをする。
傷つくところなのかもしれない。一緒に帰るようになってもう2ヶ月になる。それなのに、今ごろこんなことを言うんだから。
「『下校時刻になりました。校内に残っているみなさんは――』」
不意に余所行きの声を出したあたしに、高橋は少し目を丸くする。口をぱくぱくしているのが目に映って、あたしは俯いて笑いを堪える。
「あっ、…え、あれ、紺野だったの?」
「そうだよー。高橋から部活動を奪う悪魔の声です。」
ちらりと視線を上げると、高橋は心底情けない顔をして、自分の失言をどうカバーしたものかと躍起になっている。
そんな高橋を、あたしがどれほど愛しいと思うか、高橋は想像もしないんだろう。きっと、あたしを傷つけたと思って、頭の中はどうしようでいっぱいの筈だ。

ねえ、高橋、知らないでしょう?
あたしはずっとあなたを見てたんだよ。試合も、本当は欠かさず見に行ってるんだよ。

堪えきれなくなって吹き出すと、高橋はどうしていいのかわからないというような表情になった。
こんな熊みたいな中学生に、と思われるかもしれないけど、高橋は可愛い。すごく、すごく。


ねえ、高橋。
あたしは、あたしに気付かない高橋が好きだよ。
あたしに気付かないまま、まっすぐまっすぐ進んで。あたしは、そんな高橋をずっと見ていたい。


夕陽に沈むスタンドで、出来るだけ目立たない席を探して応援するよ。
夏が終わるそのときまで、ひたむきな視線が曇らないように。
たとえ夏が終わっても、次の季節を、その瞳が見つめられるように。


2006/08/21

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