人魚の骨の色

これはきみの骨。
波打ち際できらめくそれを手にとって、僕は直感する。


きみと出会ったのは夜だった。
月のない真っ暗な夜だった。
僕はその日、振られたばかりでくさくさしていた。
柄にもなく自棄酒なんて煽って、ひとけのないこの海で、砂まみれで寝転んでいた。
闇に埋もれて身動き一つしない僕に、きみは気付かなかったのかもしれない。あるいは、死んでいると思ったのかもしれない。

その日、夢うつつに唄を聴いた。
日本語ではない、英語ではない、どことなく北の海を思わせる、細い声だった。
声、というのは少し語弊があるかもしれない。異国のうつくしい楽器の音色のようだと、僕は思った。

東の海だったから、僕は朝日を浴びて目が覚めた。
立ち上がると、海は僕の足のすぐ近くまで迫っている。
アルコールの残る身体でぼんやり波打ち際を見詰めていると、何かが波打ち際で光っている。
吸い寄せられるように取り上げたそれは、鱗だった。掌ほどもあるその鱗は、どう考えても、魚のものにしては大きすぎた。(その鱗は、僕の家で一番古い辞典の“ま”行に挟んでいる。)


あれから、幾度もこの海を訪れた。
あの優しい、不思議な色味を帯びた旋律に、引き寄せられるような気持ちで。
潮騒にまぎれて、ざわめく木々の葉擦れの音にまぎれて、ときにかすかに、ときに耳元で、それは流れた。

友人と修復不可能な喧嘩をしたとき。
彼女にひどい振られかたをしたとき。
尊敬していた恩師が不慮の事故で還らぬ人になったとき。

ちっぽけでありながらはっきりとした傷跡たち。
僕の歴史の分岐点には、いつだってこの海と、きみの存在があった。


僕はきみと言葉を交わしたことはない。
陽の光の下で笑いあったことも、その影を眺めたことさえない。

だけど、いつだって僕はきみのうたに。きみの奏でる旋律に。
進むべき道の在り処を、示してもらうような心地がしていたんだ。


いつしか僕は大人になって。
就職をして結婚をして子供が生まれて、変化らしい変化から少しずつ取り残されて。
そのうちに、この海のことを忘れてしまっていた。
最後に訪れてからどのくらいの月日がたっているのか、思い出すことさえできない。


久しぶりに立ち寄ったそこは金網で覆われていて、見渡す限り、平らな砂で塗り固められていた。
アスファルトに覆われてしまう日も、そう遠くないだろうと僕はすぐに悟った。

この現実に、きみはどうしただろうか?
僕の分岐点にいつだって存在したきみのそれに、僕は気がつくことすらできなかった。
金網を痛いくらい握り締めて、僕は暗闇を睨みつける。


遠い遠い、かすかな潮騒。
海の気配。

感じた風は、ひどく弱弱しかった。



次の休みを使って、あの海から少し離れた海岸を訪れた。
季節はすっかり秋で、海に人の気配はない。
海は凪いでいて、何の変哲もない海だった。
かすかな期待を抱いて訪れたこの海にきみがいないだろうということを、僕はすぐに理解した。
何がちがうのか、自分でもうまく説明できない。
けれど、ちがう、と感じた。

息をついて視線を落とすと、足元に光を反射する白いものが打ち上げられている。
珊瑚の欠片だろうか?
何とはなしに取り上げたそれは、光を反射して七色にきらめいた。
おごそかに、謙虚に、それはかがやいた。


眺めているうちに熱いものがこみあげて、零れた。
僕はうっかりそれを落としてしまわないよう、右手に力をこめる。

きみはきっと、僕に海をわけてくれたのだ。
あたたかな、あたたかな海。少しずつ少しずつ、年月をかけて。

滴はあとからあとから込み上げて、そうしてすっかり、大きな海の一滴となった。
僕は、それがきみのもとへ還ったのだと、信じたい。

2006/09/20
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