夏に溶ける

あなたはいつも、心配になってしまうくらい身軽だった。
だからあたしは、いつかこんな日がくるんじゃないかって、ずっとずっと思っていた。


―――来るんじゃなかった。
喧騒から離れて、影にまぎれて腰を下ろした。賑やかな場所は苦手だ。ひとりひとりの距離が均一でないのに、何食わぬ顔をして、同じふりをしたひとたちが集まっている空間。あたしは、大勢で集まるのが好きな人の気が知れない。
「………気分悪くなった?」
風みたいな自然さで、声が落ちてきた。顔を上げると、笹野が半分、影に埋もれて立っている。ふ、と息をついて、あたしは首を振る。
「飲んでないし。それより、人酔いしちゃった感じ。」
14人じゃん、と笹野は笑う。腰を下ろした笹野は暗がりに完全に身を埋めていて、目が慣れてきたあたしはその笑顔を真正面から拝む。笹野の笑顔は眩しい。いつも。
「それより、主役がこんなとこ、来ちゃっていいの?」
言わなければいいのに、あたしは言ってしまう。けれど、笹野は気にした風もなく頷いた。
「あいつらもう酔っ払ってんだよ。俺ひとりいなくてもわからないって。」
そんな問題じゃないでしょ、今日集まったメンバーは、笹野に会いたくて来たメンバーなんだから、と思ったけれど、あたしは飲み込む。あたし自身、笹野にどうしても会いたくて、苦手なクラス会なんかに参加しているからだ。
「…どこに行くんだっけ?」
「俺?オーストラリア。」
「オーストラリア、かぁ。急だったから吃驚した。」
「急に決まったんだ。まさか、わざわざ送別会してくれるとは思わなかった。」
「…いつ、帰ってくるの?」
缶ビールに口をつけた笹野は、ちらりとあたしに視線を向けた。あたしが目を逸らさずにいると、困ったみたいに目を細めて、緩く首を振った。
その仕草に、笹野が外国に行ってしまうことの重みが、どくんと響いた。帰ってこないということなのか、聞きたいと思ったけれど、聞いてしまうと決定打になってしまう気がして、あたしは黙って、その横顔を眺めていた。
「そうだ、皆川、花火しない?」
心臓の音ばかりが響く静寂を、先に破いたのは笹野だった。
「…花火?あるの?」
「うん、あいつら、俺が来たときにはべろんべろんだったからさ、言い出せなかったんだよ。酔っ払いにさせたいもんじゃないし。」
自分も水みたいにビールを飲みながら、笹野はそんなことを言った。
「したい、けど…」
ちらりと、壁の向こうで騒いでいる元クラスメートの存在が頭を過ぎる。もう少し笹野と話がしたかった。花火が始まったら、嫌でもみんなで騒がずを得ない。
「このペンションの裏、ちょっと歩いたところなんだけど、川があるんだよ。そこでしない?」
あたしの懸念を読み取ったのか、笹野は気の利く提案をしてくれる。今度は、二つ返事で頷いた。

花火を取ってくると言って、笹野は立ち上がった。明るい場所に帰っていく背中を見詰めて、あたしはふ、と息をついた。少し、ほんの少し、緊張していたみたいだ。
高校時代、あたしと笹野は、それほど仲が良かったわけではなかった。二年の頃同じクラスで、顔を合わせれば挨拶を交わす程度の、友人以下と言っても差し支えないような間柄だった。そのラベルは、卒業して何年も経った今でも変わっていないかもしれない。それでも、会って直接空気を共有すると、そんなラベルなんて何の意味もないことのように感じる。あたしにとって笹野は、特別で不可思議で厄介な位置づけにいるらしい。そう、『いた』のではなく、『いる』。だからといって、もう、どうにもならないことだけど。
「…っ!」
不意に冷たい感触が頬に当たって、あたしは身体を震わせる。何事かと見上げると、傍らで笹野が花火とお茶缶を手に笑っていた。驚いた顔を見られたことが癪で文句を言おうと睨んだけれど、笹野が表情を緩めてお茶缶を差し出したから、タイミングを逃してしまった。
「………ありがと。」
ぽつんと、なんだかやる気のない感謝の声に笹野はまた笑って、行こうか、と言った。そういうところが笹野の狡さだ。少しだけ、もやもやしたものが胸に残った。

さらさらと、水の流れる音が夜の間を漂う。月明かりと、うるさいくらいの星空。緑のにおい。夏だけどもう秋が近くて、少し肌寒かった。
「留学に行くんだと思ってた。」
調子のよくないライターに苦戦している笹野の横顔に、声を掛けた。笹野はライターから視線を外さずに、瞬きをする。
「行ったよ、留学。」
「え、行ってたの?」
「うん。去年の夏行って、春に帰ってきた。同じとこ。」
ようやくライターが小さな小さな炎を揺らせて、備え付けの蝋燭の上に落ち着いた。
「いい所だったんだ?」
束になっていた花火を解して手渡すと、笹野が短くお礼を言う。
「うん。そんときは語学留学だったんだけど、やりたいことが見つかったから、向こうで大学に入りなおして、そのまま働きたいと思ってる。」
「そうだったんだ、」
「うん。」
「…頑張ってね。」
「うん。」
穏やかに頷いた横顔を見詰めて、笹野らしい、と思った。たくさん持っているくせに、あっさりと、身一つで歩いて行ってしまう。実感は湧かなかった。事実は上手く心に届かずに、胸の辺りで引っ掛かっている。
何となく、それ以上言葉を紡げなくて黙り込んだ。笹野も元々喋るタイプではないから、花火の燃える音ばかりが河辺に響いた。
笹野の周りには、いつだってひとがいた。賑やかな場所の真ん中にいる笹野は、あの頃からあたしとは違う世界の住人だった。眩しい笹野に、地味で目立たないあたしが目を奪われるのは当然といえば当然だったのかもしれない。
休み時間の教室、ふと顔を上げて、人の輪の中にいる笹野と目が合ったことがあった。笹野はゆっくり瞬きをして、穏やかに首を傾げる。あたしはざわつく胸を抱えて、意図があって見詰めていたと思われたくなくて、視線だけをするりとずらした。
世界が違うと、今でも思う。だけど、笹野は人の輪の中にいても、一人きりみたいな顔をすることがあった。だからあたしは、世界が違うと知りながら、どうしても、笹野のことが忘れられなかったのだ。
恋だったのかもしれない。憧れだったのかもしれない。でも、今となっては、どれもしっくり来ない。あたしにとって、笹野は笹野でしかないのだ。いつだって。

「今日、」
笹野がぽつんと口を開いた。手元の花火から視線を動かすと、俯いた笹野の顔が緑の光に照らされていた。
「来てくれると思ってなかったから吃驚した。ありがとう。」
視線を花火から逸らさずに、笹野は言った。落ち着いた声音も睫の落とす影も、記憶よりずっと大人びているように感じた。ざわざわする。
「何言ってんの、急に、しんみりしちゃって…」
あたしの花火は、とっくに燃え尽きていた。笹野の花火が、悲鳴みたいな音を立てて消える。静寂が、あたしの声の心細さを際立たせてしまった。頭の中では、もっと明るく、軽いノリで言おうと思っていたのに。
「いや、まぁ、そうかもしれないけど。」
笹野は苦笑した。何か言い募りそうな表情を浮かべた笹野の横顔から、目が離せない。笹野の言葉を止めたいと思った。これ以上、聞きたくないような気がした。胸がざわつく。煩いくらい。
「―――――-あ」
笹野は急に表情を変えて、空を見上げた。釣られて見上げると、満天の星空がいつしか雲に覆われていた。空の涙が頬を滑る。
「行こう」
終わったあとの花火の入ったビニール袋と、火の消えた蝋燭を持って、笹野は立ち上がる。あたしは慌てて、残り少なくなった花火を手に取った。
次第に大きさを増す雨粒から逃れるように、笹野に手を引かれて走った。掴まれた手首に意識が集中して、いつか、海の向こうで、笹野にエスコートされるオンナノコはどんなコなのだろうかと、詮無いことを考えていた。

屋根のついたちっぽけなバス停に辿りついたとき、あたしも笹野もそんなに濡れていなかったけれど、花火の方は不思議なくらい雨粒を含んでいた。
座り込んで息をついている間に雨は激しさを増して、狭い四角い空間に、あたしと笹野は取り残される形になった。
もう随分前のことだ。確か夏だった。夏期講座があったのか試験期間だったのか、どういう経緯だったのか思い出せないけれど、放課後、笹野と二人でバス停まで歩いたことがある。
あたしたちの通っていた高校は少しばかり不便な場所にあって、バス停にたどり着くまでに30分くらい歩かなくてはいけなかった。その道のりを、何故だか笹野と二人で歩いた。他愛もないことをぽつぽつ話した。留学に行きたいのだと言って屈託なく笑った、笹野の顔を覚えている。そのうち、晴れているくせに急に雨が降り出して、道端にある小さな売店の軒先で、雨宿りをした。
よく覚えている。笹野の睫が水滴を受けて煌いていたこと。雨を含んで重くなった、制服のスカートの感触。胸をつく、焼けたアスファルトのにおい。
「皆川、結構濡れた?」
あたしの方を向いた笹野の横顔が記憶と重なってどきりとする。あたしは自分を誤魔化すように、2、3度瞬きをした。
「全然。笹野は?」
「俺も。じゃあ、しばらくここで雨宿りしよう。」
「だね。……ねえ、笹野、」
「ん?」
「花火、結構濡れちゃった。どう思う?」
束になった花火の中から一本を選び出した笹野は、確かめるように花火をなぞる。
「厳しいんじゃないか?やめとこう。」
「だよね、」
息をついたあたしは、花火の束を握っている手の中に、異質な感触があることに気がついた。取り出してみると、小さなビニール袋で小分けされた、線香花火だった。飛ばされたら困るからと、開封しなかったのだ。
「笹野、線香花火無事だった。」
「え?」
線香花火のビニールをまじまじと見詰めた笹野は、よし、と言って嬉しそうに笑った。

雨の中、湿気のせいで花火がつかなかったらどうしようかと思ったけれど、風が強くなかったこともあって、小さな心配は杞憂に終わった。ぽつんと、丸い橙の火が二つ、あたしと笹野の間に横たわる暗闇に浮かんでいる。
どんな願いを掛ければいいのか思いつかないまま、火花を散らす炎が、上昇してくるのを見詰めていた。ちらと正面の笹野の様子を窺うと、目を細めて、自分の花火を見詰めている。こんなに柔らかく、笑むひとだったろうか。こんな風にふわりと、黙り込むひとだったろうか。今更のように、あたしは笹野が、あたしの記憶のままの笹野ではないことに思い至った。
噎せ返るような、夏のにおいの中に流れた日々。笹野があたしの人生にいて、笹野の人生の端っこに、あたしがいた頃のこと。ひどくひどく懐かしいような、けれど、そんな言葉は不似合いなくらい、ちっとも古びてなどいないような。
雨音が遠ざかる。呼応するように、湿気が存在を誇示するように空気を重くする。何本目かの線香花火が呆気なく燃え尽きて、顔を上げる。軒からつたった水滴が、夜を滑るのが目に映った。
「雨、やんだみたい。」
小さく相槌を打った笹野は、しばらく横顔のままで瞬きをした。笹野の手の線香花火の粒が、地面に落ちる。
「…笹野?」
「あ。…いや、なんかさ、」
笹野は少し、困ったように顔を伏せる。残り少なくなった線香花火の一本を、場を繕うようにあたしにくれて、自分でも一本を手に取った。
消えかけの蝋燭の灯りを守るように両手で砦をつくってあたしを促してから、笹野は小さく苦笑する。
「雨のにおいが違うから。遠くに来たような気がするなと思って。アスファルトのにおいじゃなくて、土のにおいがする。」
ぱちぱちと、花火の燃える音が耳に届く。俯いて、その炎の揺らめきを見ていた。細くて頼りない線香花火が、火花の大きさに戸惑って、震えている……。
マズイ、と思ったときには、遅かった。滴は、心得たように花火を避けて地面を目指した。指先が震えて、丸い炎が、滴の後を追うようにするりと落ちる。あたしは何だか頭の中がぐちゃぐちゃになって、両膝を抱くように顔を埋めた。
「おい、」
「泣いてない。」
焦ったような笹野の声を、ぴしゃりと撥ね退ける。説得力はないかもしれない、けど。
「泣いてないから、…先もどって。」
「でも。」
「おねがい。」
あたしの頑なさに笹野はしばらく逡巡しているようだったけれど、しばらくして、笹野の気配が遠ざかるのを感じた。
急に泣き出したりして、莫迦みたいだと自分でも思う。でも今のは笹野が悪い。あの夏の日が、笹野の記憶の中にも今も存在しているかもしれないなんて、そんな哀しい望みなんて、持たせないで欲しかった。
あの日、あたしたちはどんな風に別れただろうか。バス停につく少し前、信号待ちにあたしの乗るバスがいるのを見つけた笹野と一緒に息を切らして走って、慌しく、まるでいつも通りの風景のような顔をして手を振って、別れたような気がする。一緒に走ってくれた笹野に、一本くらい逃してもいいよと言えなくて、ありがとうも言えなくて、あたしはバスの閉め切った窓越しに小さく手を振ることしか、出来なかった。
あの日なら、違う道を選ぶことも、出来たのかな。
考えてもどうしようもない想いが、溢れて溢れて止まらなかった。だって莫迦みたいだ。今ではない。もう決して、「今」ではないのに。

一頻り泣いてすっきりしたあたしは、無性に恥ずかしい気持ちで、けれども燻っていたものをようやく吐き出したような気持ちで、空の下に出た。満天の星空を見上げて深呼吸をする。少し薄まった土のにおいと、雨を含んだ緑のにおい。かすかに流れる、秋の気配。
息を吐いて目を開けると、いつの間に戻ってきたのか笹野がいて、手にしていたお茶缶を少しぞんざいな仕草で頬にくっつけてきた。冷えたお茶缶は火照った頬に心地よくて、ありがとうが自然に零れた。
するりと離れた笹野の指から火薬のにおいが薫って、少しだけ、懐かしい雨のにおいを思い出した。

2006/11/15

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